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聖山簡介
台湾聖山簡介.日本語翻訳
作者 台灣大地文教基金會   
2019-06-11

台湾聖山簡介

「台湾大地文教基金会」は、2004年から、「台湾人は台湾神を崇めよ」という活動を押し広めています。活動の主な意義として、一、歴史の継承、二、独立した建国信念、三、理想の為に実践する意志、を含んでいます。台湾を、独立した国家にすることを目標として掲げています。この運動は、228事件を代表する、シンボルです。59名の「台湾神」が生きた時代背景や、立ち向かった問題、事績や貢献などを通し、生きた教材として、台湾の歴史を紹介しています。台湾人の自信と、自立する勇気を育て、文化の基礎を耕しています。

主に、台湾の伝統的な信仰の風習に倣い、信仰の神聖性を、強調しています。活動の第一段階として、2004年~2010年に、デモを通し、「台湾神」の事績を広め、当時の記憶を呼び起こそうと、努めました。続いて第二段階として、2007年末から今に至るまで、「台湾聖山―生態教育園」を信仰の拠点地として建設し228事件当時の記憶を呼び起こし、犠牲者を思う場所としての役割を果たしています。厳粛な儀式を通して、「228台湾神」の神聖性を主張しています。2014年には書籍を出版し、布教の精神で、台湾社会と協力し合っています。


聖山紀念碑の巡禮(更新を続けます)

林茂生
1916年、東京帝国大学(現・東京大学)を卒業。台湾人で初めて日本の学士号を取得しました。1927年には、アメリカのコロンビア大学に留学し、1929年に哲学博士号を取りました。これは、台湾人初の、外国での文系博士号取得です。彼は、台湾人が自由な環境で、最新の教育を受けられることを目標に、全力を注ぎました。1945年10月に創設された、※1≪民報≫の社長を担当し、日本統治時代に、台湾の民族や社会の為に活躍した人々を多く雇用しました。 民衆の代弁者である≪民報≫は、当時、国民党政府が統治する台湾の、腐敗した政治、経済、人々の暮らし、文化や社会の状況を忠実に記載し、それを指摘しました。彼は、新聞を通して、社会に教育が行き届くことを、渇望したのです。

※1.≪民報≫:林茂生が創設した、新聞会社。戦後、台湾人が創設した、最初の民営新聞社で、植民地支配への反対や、当時の社会状況などを多く記載した。
 

八田与一(はったよいち、1886~1942)
1886年、八田与一は、石川県の裕福な農家に生まれました。1910年に東京帝国大学工科大学土木科を卒業。1914年から、台南の水道工事に、水利技術者として携わりました。1920年、八田氏は、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」の建設を計画し、全ての作業工程には、約10年かかり、総工程費は、5千万円にも上りました。面積は、雲林(うんりん)、嘉義(かぎ)、台南(たいなん)を合わせた土地面積と同等で、当時、東南アジアの中では、最大規模の水利施設でした。主な施設には、烏山頭(ウーサントウ)ダムや排水溝、防水設備などがあります。特に、烏山頭(ウーサントウ)ダムの見事な灌漑システムのおかげで、洪水や、干ばつ、塩害などの農作被害を解決し、その後の台湾の命脈となる農業の基礎ができました。

嘉南大圳(かなんたいしゅう)建設時、多くの作業員が亡くなりました。八田氏は、それらの人々の為、慰霊碑を作りました。台湾人、日本人などといった母国に関係なく、皆平等に、亡くなった順に名前を刻みました。

1923年、関東大震災が発生し、嘉南大圳(かなんたいしゅう)の総経費が削減されることになった際、八田氏は、あえて優秀な技術者を解雇し、現地の非熟練労働者を積極的に雇うことで、この危機を乗り越えました。この政策は、当時働き口の少なかった多くの非熟練労働者にとって、とてもありがたいものでした。

八田与一は、人民平等の精神で台湾人に寄り添い、広く深い視野と慈悲を以て台湾に貢献しました。その甚大な貢献は、台湾神の模範として崇められるに値するものです。
 

仁術を以て、民衆の為、その一生を終えた男-黃媽典(フアンマーディエン)
黃媽典(ファンマーディエン)(1893-1947)は、嘉義(かぎ)の朴子(ぼくこ)の生まれで、最初の朴子の市長であり、医者でもありました。

家庭は貧乏でしたが、生まれつきの頭の良さで、台湾総督府医学学校(現・台湾大学医学学校)に合格しました。1913年に卒業し、嘉義の防疫対策委員会に任命され、マラリヤの予防治療を担当しました。1914年、故郷の朴子に戻り、「德壽(とくじゅ)病院」を開設。自分が貧困な環境で育ったこともあり、無料で患者に治療を施すことも、よくありました。

1917~1918年、ペスト(黒死病)が流行(1896年から、中国の廈門と台湾の安平の間を行き来していた小舟が、病気が広まった原因とされている)。黄氏は、もう一度嘉義の防疫対策部の役員として、第一線で地元の対策を指揮し、不眠不休で仕事に取組みました。その身を惜しまぬ献身の態度に、多くの人々が感服しました。

また、彼は、運送や金融、養殖、畜産、電気などといった、様々な経営事業にも取り組みました。1916年に金融事業を開いた後、経営は非常に良く、商業界において、その勢いは止まることを知りませんでした。

政治面にも興味を示し、1920年~1936年には、東石郡にある役所の朴子市長を、16年務めました。市長就任期間に、衛生面や水利、交通、教育、産業などの基礎建設を安定させ、市民からは、市長として非常に敬愛されました。

1946年3月、台南の参議院議員に当選(当時の朴子は、台南に属していた)。産業界の推薦を受け、「台湾省商会連合会」(旧・「台湾商工経済会」)理事長をを担当し、10月には、連合会の代表として、他の役員を引率し、南京で行われた全国商会連合代表大会に参加しました。

1947年、228事件勃発後、市民の要請を受け、青年大会(海外青年会議)の司会をした際、彼は青年らに、慎重且つ冷静に情勢を見極めるよう呼びかけ、穏便な改革を進めていく立場を示しました。

市民を守るため、自ら国民党政府に赴き、対話を試みましたが、その結果、ひどい拷問を受けることになりました。

そして3月24日、台南市の新営区にて、無残にも、公開処刑されました。銃殺前、黃氏は、政府の命令に従わず、最後まで跪くことを拒み続けました。刑が施行された後になって、「秩序妨害罪で、7か月の投獄」という判決が言い渡されました。酷いことに、当時は、すでに処刑した後で判決を下すという事が、よくありました。

最前線で流行り病を対策し、積極的に地方の建設に取組み、政府との争いを避けるべく仲介し、常に民衆に寄り添ってきた黃媽典は、永遠に、為政者の模範的存在です。


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最後更新 ( 2019-06-11 )
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